『金田一耕助映像読本』(洋泉社MOOK)




私はこの本をあまり好きではありません。

作品ごとの製作上の事実に関しては、
現在ではネット上で簡単にいろいろな情報を参照できるのですから、
そういう時代にあえて書籍として出版するなら、
ここに情報をまとめました、というだけではない何かが欲しい。

この本はそういう面で価値が低いと思います。

一番面白いのは製作スタッフや俳優たちのインタビューですが、
それも多くは同社発行の『映画秘宝』からの再録ですから、
出版社にとっては手軽なことのように見えます。

これはデータを提供することが第一義的な目的で、
批評をするための本ではないのだ、ということかもしれませんが、
そうだとしてもその提示の仕方がつまらな過ぎる。

コラムで書かれていることも『真説 金田一耕助』などの、
横溝正史自身のエッセイからのつまみ食いといった印象が強いです。


以下、具体的に気になった個所について。

「第2章:片岡千恵蔵の金田一シリーズ」では、
まず最初に「千恵蔵版金田一の成り立ち」で、
GHQの指示で時代劇が作れなくなった、などの時代背景とともに
なぜこういうシリーズが作られたのかを手際よくまとめてあり、
その後に作品ごとの解説を別なライターたちが書く、
という構成になっているのですが、
その中で、『三本指の男』の解説(P.68)を担当したライターは、
最初に「成り立ち」で書かれたことを
ほぼそのまま(簡略化して)書いている。
この文の前置きとして必要だとも思えず、単に冗長なだけです。

そもそも原稿を依頼するときに、
こういう構成になることを編集者が伝えておくべきですが、
後からでもこういう原稿が上がってきたら、
「この点は最初の総論でカバーしてるから、
ここは省いてもっとこの作品単独について書いてください」
という指示を出すべきでしょう。
それすらしていないところに、編集側のいい加減さが感じられます。


「第3章:横溝正史シリーズ」

『夜歩く』の解説(P.89)
では原作のネタばらしをやっています。


たとえば瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』で、
それをしないと意味のある批評ができないから、という理由とともに、
これから『Yの悲劇』のネタをばらす、と宣言したうえで、
内容に踏み込んで書いています。
こういうのは、批評家の仕事として理解できますし、
未読の読者はそこで読むのをやめる選択ができます。
(この『読本』の他の場所でも、ある程度のネタばらしはやっていますが、
内容の違いを比較検討するためには避けられません。)

ここでやっていることはそれとは全く違い、
そうしなければならない、というほどのことを書いているわけではない。
冗談みたいな軽いノリで、ついでに書いているという感じです。

しかもその際、類似のアイディアを使っている他の作家の作品にも言及しているので、
結果として二作品のネタばらしをしてしまっている。

「この原作は読んでいないが、このTVドラマ版は見ているから、
この記事はネタバレを気にせずに読めるだろう」と考える読者もいると思いますが、
そういう人は原作独自の仕掛けをバラされてしまうことになります。
(TV版を先に見ていれば原作を読む前に犯人はわかっているはずだから、
ここでバラしてもいいだろう、という考え方はここでは不適切だと思います。)

この書き方には、非常に不愉快になりました。


「第5章:名作映像化比較研究」

『悪魔の手毬歌』では
石坂版の別所千恵(大空ゆかり)の設定について(P.187)
まったく歌う場面がないので歌手なのか女優なのかどうかも判然としない。

とありますが、冒頭の青年団の会話の中で
「別所千恵ゆうたらわが郷土が生んだ天才歌手や」

と言っているので、歌手だということは明確です。
画像

言葉の上でそう言っているだけで歌手らしさを見せる演出がない、
という意図で書いたのかもしれませんが、
だとしたらこの文章が曖昧だということです。

(なお、ここで言われているような意味とは異なりますが、
千恵が人食い沼の傍に一人佇んで
手毬歌をつぶやくように歌う場面がありますから、
「まったく歌う場面がない」という断定も、正確さを欠きます。)

また、古谷2時間版(私は見ていません)について(P.186)
手毬歌の1番を聞いただけで、この歌詞にもとづく殺人であることを見抜いてしまう。つまり、最も早く見立て殺人であることに気づく金田一である。

と書いていますが、その点では石坂版も同じはずなのに、触れていない。


こうしたことは些細なことではありますが、この記事は
各バージョンの些細な違いを比較する
のが趣旨なのですから、これでは困ります。


「金田一耕助を取り巻くひとびと」というコラム(P.215)では
等々力大志
『暗闇の中の猫』で初登場

成城の先生
『黒猫亭事件』で初登場

としています。

そうでしょうか?

これらの作品では、それぞれの人物が
金田一と最初に出会ったときのこと
が書かれてはいますが、それは「初登場」とは言わないと思います。

普通、ある人物がシリーズの中で「初登場」した作品、
と言えば発表順で見るものだと思います。

もう一つ、作中での時系列で見た時に最も古い作品、
という見方も一応あるとは思いますが、
どちらの見方でも上記の「初登場」作品は変です。

「成城のY先生」は、金田一ものの第一作
『本陣殺人事件』(初出: 1946-04~12『宝石』)
から、「私」として事件を記述していますし、
自分の素性を語ったり、事件のあった邸を再訪する様子なども書いていますから、
これより発表も設定も後になる
『黒猫亭事件』(初出: 1947-12『小説』)
で初登場、というのは変でしょう。

また、『本陣』でも『黒猫亭』でも、
「私」は事件の外側にいる記述者であり、
「物語」には登場しない、という点では同じです。
(私が読んだ中では、Y先生が「物語」の中に登場しているのは
『病院坂の首縊りの家』だけです。)


次に、等々力大志警部ですが、
『暗闇の中の猫』の初出は1956-06の『オール小説』だそうです。

私の場合、金田一ものは未読のものの方が多いのですが、その中でさえ
『女王蜂』(初出: 1951-06~1952-05『キング』)
『悪魔が来りて笛を吹く』(初出: 1951-11~1953-11『宝石』)
など、明らかに『暗闇の中の猫』より前に発表された作品に
等々力警部は登場しています。

『暗闇の中の猫』にある、金田一が
等々力警部と、はじめて相知った事件

という記述に従ったのかもしれませんが、
作中の時系列で見たとしても、
『悪魔が来りて笛を吹く』では金田一と等々力は
昭和十二、三年ごろ

からの
ずいぶん古い馴染み

とあり、こちらを採る方が一般的でしょう。

実際、本書の「金田一耕助年表」のP.217でも、こちらの説に従っています。
(このあたりの矛盾についてはこちらに詳しく書かれています。)

さらに言えば、これらに先駆けて、由利麟太郎ものの
『蝶々殺人事件』(初出: 1946-05~1947-04『ロック』)
「警視庁の等々力警部」という人物が、
東京側の捜査責任者として登場しています。

異論はありえますが、金田一ものに登場する等々力警部と
同一人物だと考えても矛盾はないように思います。

『蝶々殺人事件』は、
昭和十二年の秋におこった

という事件を戦後になってから記述している、という体裁になっていますが、
その記述者である三津木俊助は
等々力警部とはいままでいくつかの事件で行動をともにしているので、由利先生も私も顔なじみである。

と書いているので、もっと古い設定の、私が読んでいない作品にも登場しているのかもしれません。

映像化された金田一ものの中には、
原作の主人公を由利から金田一に変更したものもあるのですから、
プロの仕事としてはそのあたりまでは確認しておいてほしいものです。


最後に

市川版『八つ墓村』の製作当時、『TVブロス』誌で、
映像における金田一耕助の特集を組んだことがありました。

隔週誌の特集記事ですからページ数も限られていましたが、
片岡千恵蔵版など過去の映像作品への言及、
歴代の金田一役者の論評を中心とした座談会、
漫画家JETへのインタビュー、などを揃え、
このムックよりも遥かに濃密な内容で、
当時何度も読み返したものでした。

『金田一耕助映像読本』にも同じようなことを期待していたのですが、
かなり失望しました。

結局、このムックで何が一番欠けているかというと、
執筆陣の、作品に対する「のめり込み」のようなものなのではないか、
という気がします。

興味はないがプロだから依頼があれば書きます、という醒め方が
冷静な奥深い分析になるなら歓迎ですが、そうはなっていない。

洋泉社MOOKを読んだのはこれが初めてです。
同じシリーズにはウルトラシリーズを扱った巻などもあって、
随分前から購入の検討もしていたのですが、
そちらも本書のような性質だったら嫌だな、と思い、躊躇しています。


参照

初出については下記を参考にさせて頂きました。







横溝正史&金田一耕助 DVDコレクション 【創刊号】[分冊百科]
朝日新聞出版
2015-02-17

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